安壇美緒著。集英社。
少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇し、以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた橘。 ある日、上司の塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。 目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。 橘は身分を偽り、チェロ講師・浅葉のもとに通い始める。 師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしだすが、法廷に立つ時間が迫り……(紹介文引用)
素晴らしかった………!
全著連に所属する橘は、上司の命令により著作権法の演奏権を侵害している証拠を摑むためにミカサ音楽教室に通い始める。しかしチェロ演奏や講師の浅葉、チェロ教室仲間と交流しているうちに自分の中で罪悪感が芽生え始めた。このまま彼らを騙しながら教室通いを続けていいのだろうか。
飲み会に参加したり発表会に出たり、孤独で不眠症を抱えるサラリーマンには眩しすぎる日々だったろうことがひしひしと伝わってくる。実は私もヤマハ音楽教室に通っていたことがあるので雰囲気やアマチュア音楽家たちがどういう人種で音楽を演奏するということがどういうことか少しぐらいは分かる。だからこそ余計に作品にハマったのだろうが、橘が変わっていく過程やその苦しみ、浅葉講師や仲間たちの人の良さ、その魅力が生き生きと描かれていて、読む手が止まらなかった。
このままここでチェロを続ければいいのに、浅葉さんにバレる前にスパイなんてやめてしまえ、何度読みながらそう願っただろう。橘はあくまで会社の人間として、会社の指示で潜入しているだけで、橘の口から飛び出す「演奏権の重要性」が上滑りしていることが分かるのだ。
関係性が壊れてしまってからの橘の懊悩…また彼らと演奏をしたいという気持ちは本物だった。不眠外来で医師との関係性が変わって行くところや人と人の絆や信頼というものに自覚的になっていく橘の心境の変化は見事の一語。芸術という共通点を持つ、大人の社会の構築に素直に感動した。
300ページほどの薄めの長編なのだがとにかくハマってしまい、50ページくらいから怒涛の一気読み。時には中腰のまま、部屋を移動しながら、楽な姿勢に戻すことを忘れるぐらい没頭した。こんな本は5年に1冊あるかないか、読まずに返すなんていう愚行に走らなくて良かった(本来の自分なら返却までに読み切れる日数ではなかった)。