すべてが猫になる

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スクランブル (ねこ3.8匹)

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若竹七海著。集英社文庫

舞台は1980年の女子高。文芸部所属の17歳の少女達の通う学校で、
ある日一人の少女がシャワールームで殺された。事件は解決されないまま、
彼女達は15年ぶりに再会した。それは、彼女達グループの一人の
結婚披露宴。そして今、当時の事件の謎は明らかになるーー。


かくいう私、実は私立女子高に通っていた。この物語ともう一つ自分とリンクする部分、もうすぐ
32歳になる今から過去を振り返って、高校時代というのは一番「無」の時代だったように
思う。本書と微妙に時代がズレるが、まあ、こんな感じでしたわ。。
文芸部なんてなかったけれど、歌のベストテンも終わっていたけれど、この意味も無く
ひたすら大人ぶっていた恥ずかしい時代。

全盛期だったバンドブームに熱狂し、やれユニコーンだブームだジュンスカだカステラだと
「パチ○チ」や「ロックンロールニューズ○ーカー」を毎月買いあさり、ファンクラブに
入会しライブに行くためだけにバイトし、尾○豊やB'○やドリ○ムが好きだというクラスメイトを
一般ピープル」だ「ミーハー」だと陰で軽蔑していた。(今思うと自分のことだ)

そのくせ彼氏がいない事がコンプレックスで、派手なクラスメイトに男子校の友人を
紹介してもらった事が唯一の自慢で、結局ありがちな「体育教師に惚れる」を地で行く格好で
毎朝5時に起きては桂山先生(25歳・仮名)宛に弁当を作っていたりもした。卒業式にふられたが。
そしてそれなりに満喫していながらも、「こんな公立に落ちた奴が来るようなガッコー」と
愚痴しか言わない生徒達の風潮に自分も流され、「なんとなく」貴重な3年間を消費してしまった。
それが自分の17歳だった。


若竹氏は、17歳の不安定さを見事に描いている。一方では大人で、一方では幼い
成熟していない、それでも振り返ってみるとやはり輝いていた青春時代。32歳の
彼女達に自分を重ね合わせるのは自然だった。
ミステリとしても、小説の構成としても完成度は高い。「エピソード」で次々語り手が
代わり、当時の事件の真相に着実に迫ってゆく。そしてラストのこの驚愕の真実。
ページ数は少なめだが、それでもずっしりと心にすっぱい、響く物語だった。

余談。
これを読んでいる最中に思い出した。

高校3年生の自分には、天敵と呼ぶべき一人の生徒がいたのだ。奇しくも出席番号が並んでいて、
1年間席替えをしないクラスだったため常に背後には「そいつ」がいた。
特に何か大きなトラブルがあったわけでもないが、「ウマが合わない」というのか、
とにかくお互いに嫌いで、真横、真後ろにいるのに毎日のように悪口を言い合っていたのだ。
「前の奴むかつく」とか。低レベルである。笑ってくれ。若かった。。
それで面と向かって口を聞いた事がないのだから驚く。
それが、どういうわけか、卒業間近になって徐々に良い方向へと雰囲気が流れて行った。
お互いに、ぎこちないながらも笑い合ったり声を掛け合ったりするまでに変化したのだ。
何があったのだろう?肝心のそこを忘れてしまったが。

しかし、急に仲良くなるにはあまりにも残された日が足りなかったし、今更という
照れもお互いにあったのだろう。結局、おざなりに「サイン帳」から1枚渡して、義理だよん、
というプライドが殻をかぶったまま、卒業の日となった。
写真を撮りまくり、生徒もほとんど帰宅してしまったかという時刻。自分らもそろそろ
帰ろうかと、校門をくぐったその時。
Iさんがいたのだ。
そして、笑顔で「ゆきあやさん、これ。」と渡されたのが、頼んでおきながらすっかり
忘れていたサイン帳。
丁寧に記入されたそのサイン帳をなにげなく、ちょっと嬉しいぐらいの気持ちで読み、
ふと裏面を返してみると。
そこには、あまりにもへたくそな絵で、Iさんと私が手をつないでいる姿が描かれていた。
(下手すぎて人間というよりおでんだったが、ちゃんと服に名前が入っていた)
横に小さく書かれた、「友達」という二文字。
顔を上げると、もうIさんは走り去った後だった。


長くなった。つい浸ってしまったが、まあそれでも思い出すのは楽しかった事ばかりで
そんなに未熟という事は悪い事ばかりでもない、という事を認識させてもらった本だった、
という事が言いたかった。。の、かな。。
Iさんとはあれから二度と会うことはなかったし、風の噂も聞かないが
もし今後再会することがあるなら、あのエピソードについてからかい合えるくらいには
お互い大人になっただろうなあ、と今夜は思いを馳せてみるのでした。<了>